小柄ながらもレベルの高いテクニックで、ウェストハムで攻撃的ミッドフィルダーとして頭角を表した元イングランド代表MFジョー・コールは、ロシア・マネーを手にしたチェルシーが触手を伸ばし、契約を勝ち取った。
スタンフォードブリッジでは通算281試合39ゴール45アシストを記録し、レジェンド級の活躍とまで行かないものの、チームメンバーとして数多くのタイトルに貢献した。すると、2010年には転機が訪れ、チェルシーと契約満了を迎え、新天地にリバプールを選んだ。
アンフィールドでは初戦でレッドカードを受けて一発退場。不名誉なデビューを飾ると、その後は負傷の影響もあり、鳴かず飛ばず。1年後には戦力外と見なされ、フランスのリールにレンタルで放出された。同選手は2010年の移籍劇の舞台裏を明かし、トッテナム・ホットスパーも選択肢のひとつだったと語った。
「アーセナルが撤退したから、リバプールとスパーズのどちらかを選ぶことになったけど、スパーズには行けなかった。ただ、行けなかったんだ。」
「理にかなっていただろうし、ハリー・レドナップが監督だったし、ロンドンに住んでいたし、良いチームだったけれど、僕の友達の半分はスパーズのファンだった。でも、選ぶことはできなかった。」
「娘が生まれたばかりだったし、リバプールは素晴らしいクラブだ。あそこではうまくいかなかったけど、世界的に有名な偉大なクラブだし、もう一度自分の時間が持てるなら、すぐにでも行きたいよ。」
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2013年の冬には、リバプールから古巣ウェストハムに移籍するも目覚ましい活躍を見せられず、翌年の夏にはアストン・ヴィラに加入。この期間において、元イングランド代表MFはたびたびハムストリングを痛め、ベンチ外を余儀なくされた。
ところが、2016年に加入したタンパベイ・ローディーズではそれまでとは違った世界が待ち受けていた。暖かな気候のもとでプレーすることで、怪我に悩まされることも少なくなった。その経験から、もしも当時に戻れるなら、南ヨーロッパでのプレーを選ぶだろうと口にしている。
「それからアメリカに行ったときは、太陽の下で生活でき、まるで奇跡のようだった。もしも今なら、スペインかイタリアか、どこか暑い国に行って、もう少し長くトップレベルでプレーしていただろうね。」
「それに、暑いところでプレーした方が、膝の調子が良かったから、海外に行って暑いところでプレーしただろうね。」
「だって、その後、リバプール、アストン・ビラ、ウェストハムと渡り歩き、フランスでもいいシーズンを過ごしたけど、怪我と折り合いをつけながらプレーしていたからね。時々いいプレーもしたけれど、いつもとは違ったんだ。」
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