10代の頃、ル・アーヴルで頭角を現した若き才能アントニー・ル・タレクは2002年の夏にリバプールにステップアップ。期待の若手のひとりとして評価されると、アンフィールドで通算32試合でピッチに立った。
2004/05シーズンには、イスタンブールの奇跡を成し遂げたリバプールにおいて、準々決勝1stレグでは、当時世界的にもトップクラスのユベントス相手にアシストを挙げるなど、今後もリバプールで活躍するかに思われた。
ところが、その裏ではラファ・ベニテス監督との関係が悪化。同シーズンの開幕前にレンタル移籍を希望したことをキッカケに、スペイン人指揮官の中での序列は下がり、その後はローン移籍を繰り返す日々を強いられたと明かした。
「2004年7月、ベニテスにレンタル移籍を申し出たことは愚かだったし、彼は僕に腹を立てていた。」
「1月にサンテティエンヌから戻ってきたのは、リバプールに怪我人がいたからだ。そして、シーズン終了後、ベニテスはこう言ったんだ。”私にとって、君はクレイジーだ。君は3人のうち1人のアタッカーだったけど、今は8番手だ” ってね。」
「僕は若かったのに、彼は何も知ろうとせず、毎年僕をレンタルした。彼を責めたよ。僕のキャリアはもっと違ったものになっていたかもしれない。でも、あの一件が僕にとっては致命的だったんだ。」
「2005年、ベニテスはチャンピオンズリーグ決勝のメンバーに私を入れなかった。あれには涙が出たよ。」
「ハリー・キューウェルは怪我から復帰したが、20分後にまた怪我をした。決勝戦ではスタンドにいたが、イスタンブールでタイトルを祝うことも、リバプールを練り歩くパレードにも参加しなかった。家にいたよ。あまりにも悲しかったから。」
L’Equipe
2008年にはレンタル地獄から脱出し、ル・マンに移籍。その2年後には、オセールに加入。母国フランスでキャリアを取り戻したが、若手の頃に期待されたほどの選手にはなれず、2021年には現役引退している。
もしもベニテスとの関係が良好で、トップチームで起用され続けていれば別の世界線もあったが、あくまでタラレバでしかない…