1998年にオランダの名門アヤックスの下部組織に入団したライアン・バベルは、U-17やU-19と順調にステップアップ。2004年にトップチーム昇格。エールディヴィジで徐々に出場時間を積み重ね、初年度には27試合9ゴールでインパクトを残す。その後も二桁ゴールとまではいかないものの、10ゴールに迫る成績を記録し続けた。
オランダ代表でも各カテゴリーで代表に選ばれてきた将来有望株は、抜群のスピードとキレッキレのドリブル技術を持った典型的なウインガーは、2007年に自国で開催されたUEFA U-21欧州選手権で印象的なパフォーマンスを披露し、オランダを優勝へと導いた。
オランダの未来を担う逸材として認識され始め、アヤックスや代表での活躍が認められ、2007年に当時ラファ・ベニテス監督が率いたリバプールへ完全移籍。左ウイングを主戦場とし、カットインしてからのパスやシュートを得意とする同選手は、入団1年目に49試合10ゴール8アシストと来年に大きな期待を持たせる内容でシーズンを終えた。
この年の最後に奪ったゴールは、チャンピオンズリーグ準決勝チェルシー戦。途中出場したオランダ代表FWは、延長戦に逆転の狼煙を挙げる2得点目を決めたものの、残り時間が残されておらず敗退。ACミランにリベンジを食らった前年のCL決勝以来、2年連続の決勝戦進出はならなかった。
2008/09シーズンは飛躍の年となるはずが、スタメン出場の回数が激減。42試合4ゴールを決めた一方で、プレミアリーグでの先発出場はわずか6試合に留まった。翌シーズンも38試合出場にも関わらず、全大会あわせて14試合しかスタメンになれず、定位置確保に失敗した格好だ。
2010年1月にはバーミンガム・シティから獲得オファーが届き、選手本人も前向きと思われたが、クラブが拒否したため移籍は頓挫。2010年夏にはベニテス監督が退任し、ロイ・ホジソン監督が就任するも信頼を得られずに、ケニー・ダルグリッシュ監督に入れ替わった2011年1月25日にホッフェンハイムに放出された。
リバプールでは目立った活躍をできず、放出の憂き目にあった同選手だが、ブンデスリーガでも羽ばたけずに、1年半後にはフリーでアヤックス復帰。その1年後には再度フリーでカスムパシャ(トルコ)移籍。59試合14ゴール12アシストと復調の兆しを見せたが、アル・アイン・アブダビやデポルティーボ・ラ・コルーニャ移籍でキャリアは降下傾向に。
しかし、トルコの地が性に合っていたようで、2017年に加入したベジクタシュで完全復調。オランダ時代の輝きを取り戻し、2年の在籍期間で89試合29ゴールを奪い去り、2011年以来遠ざかっていたオランダ代表へも復帰を果たした。それから3年間はフル代表の常連として、UEFAネーションズリーグ準優勝に貢献した。
2019年からは半年間だけフラムに在籍し、その年の夏にはガラタサライへ移籍。数々のクラブを渡り歩いた元アヤックスFWだが、2011年にホッフェンハイムへ移籍した決断を後悔していると、『The Mirror』とのインタビューで吐露している。
「ラファ・ベニテス監督とケニー・ダルグリッシュ監督のもと、約4年間リバプールで過ごした。ドイツで新興勢力だったホッフェンハイムでプレーするために退団したのは、僕のキャリアの中で最大の過ちだと、今では感じている。」
また、別の機会にはイングランド移籍が早すぎたとも発言しており、もっとオランダで成長してからでも遅くなかったと明かしている。
「あと1、2年オランダにいればよかったかもしれない。」
「(オランダでは)両親と一緒に暮らしていて、海外での一人暮らしは初めてだった。違う国、違う文化、いろいろなものが同時に押し寄せる中でも、基本的にはひとりで対処しなければならない。それまでとは違い、うまく行かなかったね。」
サッカー人生ではアップダウンを繰り返し、ジェットコースターのようなキャリアを歩んだライアン・バベル。ダウンするだけではなく、しっかりとオランダ代表に復活するあたりは能力の高さを感じさせる。
そんな元リバプールFWは、音楽活動にも熱心に取り組んでいる。数々の楽曲を自身のYoutubeチャンネルにアップしている。オランダ語のため内容は理解できないものの、優れた音楽性を発揮しており、サッカー人生後のキャリアは安泰かもしれない…